2003~2020年度の川崎医科大学衛生学の記録 ➡ その後はウェブ版「雲心月性」です。
研究を巡るよもやま話
同門会誌(1999年)によせて, 第2代(発刊当時)教授 植木絢子先生より
研究をめぐるよもやま話
植木 絢子

 衛生学教室に私が加えて頂いたのは19年前のことになるかと思います。初代教授の望月義夫先生は放射線関係のお仕事に精通されておられたのですが、私が加わった当時は、四塩化炭素の肝臓への毒性を調べておられました。御存知の方も多いと思いますが、有機化合物には日常生活に便利なものが多く、ベンゼンは良い有機溶剤であるためにゴムノリ(接着剤)の溶剤として使われ、サンダルや運動靴などの家内工業を主としていたこれらの履き物製造業の方達に再生不良性貧血や白血病が多発して問題になりましたが、四塩化炭素も叉、人体に強い障害を起こす物質として知られつつあった有機化合物で、四塩化炭素をラットに経口投与して後に、麻酔開腹し、大静脈から全採血し、各種臓器をとりだして標本をつくり、病理所見を解析する他、血清を用いて色々な酵素活性等を測っておられました。先生が動物を処理される日には、教室全員が動物飼育センターに集合して、各自分担の部所について共同作業をしたものです。私は望月先生のお手伝いをして、動物の採血を担当致しました。時々マスクの上からラットの血を浴びたりしながら、結構楽しんでいたことを思い出します。標本が出来ると、ヘマトキシリン・エオシン染色では、肝小葉の真ん中の中心静脈周囲に花が咲いた様な白い模様がみられ(これは脂肪肝の像ですが)、あの特徴的な病変は一度みたら一生忘れられないと思います。その頃、一緒に動物処理に当たった仲間には、助手の菊池和子先生、研究補助員の戸板和子さん、安藤晶子さん、小西敏恵さんがおられたと記憶しております。

 その頃(叉は、もう少し後になってから?)、私の研究テーマについて望月先生とお話をしていた折に、「アスベストなどはどうですかね」と云われ、アスベストを含む広義の珪酸化合物をめぐる仕事が結局、私のライフワークとなりました。現在では、アスベストが建材に含まれる割合は1%以下であることが法律で決められていますが、当時は殆ど野放しの状態で使われており、肺癌、悪性中皮腫などの多発が心配されていました。(今でも、岡山市中のスーパーの駐車場にはアスベストの吹き付けの壁が残っている所があり、その駐車場には入らないことにしています。)

 研究を進めるにあたり、どの方向から進めば良いかと考えましたが、発癌については既にかなり研究されていたので、とても追い付けそうにないと思い、免疫系への影響はどうかと考えました。T, B リンパ球や線維芽細胞等への作用を H3-thymidine の取り込みを指標として、DNA 合成に与える影響を調べることから開始し、同じ様なことをなさっている方に出会いました。産業医学研究所におられた輿貴美子先生でした。リンパ球に対する作用についての文献を調べてみると、現在、富山医科薬科大学衛生学教室の鏡守定信教授のお仕事が唯一、国際標準品の chrysotile を使用した in vitro での信頼性のある仕事と感じ、以後、鏡守先生には学会でお会いした折や、富山をお訪ねした折などに御教示を頂いてきた恩人の一人です。

 やがて、日本産業衛生学会が広島で開催され、その時の「職業アレルギー研究会」の世話役を川崎医大衛生学教室、望月教授が担当されました。当時は今程親密な会の運営がなされていた訳ではなくて、当日に会場でスライド係りをしたり、演題を出す程度でした。私も望月教授よりの指示で発表に加えて頂きました。金沢大学医学部公衆衛生学教室の大学院生だった田畑正司先生が本教室の助手に内定されていて、会場に来られてスライド係など積極的にお手伝いして下さり助かったものです。その会が終わったあと、岡山に帰ろうとしていたところを望月先生によびとめられ、実は川崎医療短大の学長に任命されることになったので、衛生学の仕事と兼務であるため迷惑をかけるかもしれないがよろしく頼むと云われたことが印象に残ってます。多分3月31日のことだったと記憶しています。教室では当時の私は、研究補助員の河原菜穂美さんと一緒に仕事をしていました。

 田畑先生とは主に ELISA をご一緒しました。これは、先生が肺の fibrosis に興味をもたれたことから、線維芽細胞がつくる IFN-β を測定しようと云うことになったためでした。当時は ELISA の測定キットなどというものは無く、自分でプレートのコーテイングから始まり、抗体の適切な希釈濃度を決め、発色剤を決め、抗原の濃度を検討して、最も良い条件を出してから本実験に入るのが普通でした。思考錯誤の結果、測定が軌道に乗ったとき、これをキットにしてどこかのメーカーから発売すればよいのではないかと雑談の時、冗談でそんな話をしたものでした。残念ながら、田畑先生が金沢に帰られることになり、この仕事は終わりになりましたが、しばらくして本当にどこかのメーカーから、IFN-β の測定キットが発売され、やがて「ELISAはキットで」と云う時代になりました。田畑先生は金沢大学に戻られた後、金沢医大にゆかれて、公衆衛生活動と研究とに御多忙の様ですが、学会でお会いする度に今も研究の話をされ、ELISA を使った仕事を発表されていたりすると、懐かしく昔を思い出します。

 次いで、兵藤文則先生が川崎医科大学実験病理助手より移籍して助手として加わられ、現在も講師として研究と教育に取り組んで居られます。間もなく絹川敬吾先生が川崎医科大学泌尿器科より大学院生として加わりました。絹川先生特有の朗らかさに、一同大変楽しませて頂きました。望月先生の命令で直接の仕事の相談相手になり、毎日絹川先生をつかまえては、昨日の実験結果は?と尋ねて報告を聴き、次の計画を相談しました。当時は私も元気だったので、絹川先生は気の休まる時が無くてさぞ迷惑していたことでしょう。彼の仕事は、Clin. Exp. Immunol. に掲載されましたが、その仕事の主なところは、大学院1年の1学期に出来上がっていたと思います。Flow cytometry を用いて、リンパ球への chrysotile の作用を調べた実験でした。絹川先生は、その後、泌尿器科から一時期、衛生学の講師としてお借りしたこともありました。今も毎週の抄読会のメンバーです。

 平成1年4月、望月先生が川崎医科大学学長になられ、衛生学教室を離れられました。

 平成2年1月より、植木が教室を担当することになりました。平成2年4月、宮崎医科大学生理学教室助教授の津島弘文先生が講師として加わられました。丁度手薄になっていた教育の層が厚くなり大助かりしました。津島先生は微生物の産生する酵素系に関するお仕事を精力的にこなされていました。研究熱心で沢山の論文を書かれましたが、広島県の御尊父の医院の後継者として帰省されました。

 現在も活躍してくださっている研究補助員の坂口治子さんが加わられたのは、その頃のことです。衛生学の授業で教科書代わりに、プリント集を5年程配付してみましたが、これは殆ど坂口さんが担当して下さり、大変よくできたプリントでした。

 この頃、岡山で産業衛生学会が開催され、その時の分科会「職業アレルギー研究会」を私共でお世話することになりました。この頃から、委員長は大阪大学環境医学教室の森本兼曩教授で、事務局を大阪大学環境医学教室の竹下達也助教授、世話人会には鹿児島大学衛生学の松下敏夫教授、藤田学園保健衛生大学衛生学の島正吾教授(現学長)、関西労働衛生技術センターの原田章先生、香川医科大学衛生公衆衛生学教室の實成文彦教授、熊本大学衛生学教室の上田厚教授などが居られたと記憶しています。この時、講演を依頼したのは、香山不二男先生(現自治医大)、吉田貴彦先生(東海大)、谷川武先生(現筑波大学)等でした。

 記述が多少相前後しているかと思いますが、大学院生として渡辺佳樹先生が川崎医科大学腎臓内科から、次いで、山口雅英先生が川崎医科大学皮膚科から加わりました。渡辺先生はコンピューターに詳しくて、マッキントッシュのパソコンをセットして培養免疫センターの実験台でいつも何かやっていました。各種の asbestos fiber の人リンパ球への作用を、Flow cytometry や液体シンチレーションカウンターによる測定により検討し、Int. J. Oncology に論文が掲載されました。山口先生は、chrysotile および SiO2 を用いて、リンパ球の活性化に伴う細胞内カルシウムイオン濃度の測定や、珪肺症患者の末梢血液の CD4+CD45RA+ 細胞の割合を健康人と比較する等の実験を行い、日本産業衛生学会誌(産業医学)に論文が掲載されました。この頃、川崎医療短大に留学していた楊治さんが半年程、本教室で勉強されました。(大変熱心な方で、一度帰国した後、長崎大学薬学部の大学院修士過程に入学されたと聞きました。渡辺、山口両先生は、それぞれ所属の科に戻って、活躍しておられる様です。)この頃、研究補助員の風早淳子さん、宮原芳枝さん、白神弘子さん(後の川上夫人)等と御一緒に仕事をしました。

 記述が前後しますが、川上泰彦先生が岡山大学薬学部修士過程を卒業して、助手として加わりました。当時私共は、血管内皮細胞の培養などをやっておりましたので、川上先生は血管内皮細胞による補体蛋白の産生に対する各種サイトカインの作用を主に ELISA で測定する仕事をやって下さり良い結果が出ました。新生児の臍帯から内皮細胞を培養するのは大変な仕事ですが、数十例をこなし、随分上手になられました。幾つかの国際学会に発表した後、Cancer Letters に論文が掲載されました。川上先生は新設の分子生物学教室に助手として移籍しましたが、ずっと抄読会のメンバーでした。川上先生は研究補助員さんだった夫人と坊ちゃんとともにアメリカ留学に出発されたところです。 

 丁度その頃、super antigen という言葉が現れました。これは、T cell receptor のVβ領域に同じ repertoire を持つ T cell をひとまとめにして、特異抗原と同様の機序で活性化させることのできる物質(抗原)のことで、いろいろの鉱物や細菌が産生する toxin が含まれています。私共は、SiO2 を含む珪酸化合物が super antigen として働くことを認め、論文が Immunology に掲載されました。

 平成7年4月、友国晶子先生が岡山大学農学部修士過程を卒業して、助手として加わりました。同時に、大学院生として愛甲隆昭先生が川崎医科大学皮膚科より、松木孝和先生が川崎医科大学秘尿器科から加わり、研究補助員の磯崎友実加さんが整形外科より移籍して来られ、合計4名の新人が加わりました。この頃、リンパ球のアポトーシス、特に activation induced cell death が免疫学の領域で新しい話題となりつつありました。

 MBL社のシンポジウムや色々の特別講演で、長田重一先生が颯爽と登場しました。これは何か新しいことが始まるという予感が、私達の胸を熱くしたものです。東京や大阪まで、講演を聞きにでかけ、文献を漁りました。この一連のうねりの中から、私達の群れにも幾つかの良い仕事が完成しました。友国先生が珪肺症患者の末梢血液から、細胞膜の Fas や、血清中の可溶性 Fas (sFas) を測定し、珪肺症患者に有意に sFas が上昇しているらしいことが解かりました。平成8年春の事でした。丁度この春、アメリカ NIH に留学中だった大槻剛巳先生が帰国され、講師として加わりました。大槻先生も、これらのアポトーシスの仕事に興味をもって積極的に参加して下さり、強い戦力となりました。(大槻先生は平成9年より助教授に昇格しました。何事にも積極的に取り組まれる毎日で、本教室に欠かせない人材です。)友国先生が蛋白レベルで、大槻先生が mRNA レベルで、それぞれ珪肺症患者では対照群と比較して有意に sFas が上昇しているという結果をまとめて、友国先生の論文は Clin. Exp. Immunol. に、大槻先生の論文は Immunology に掲載されました。

 愛甲先生は、まだ余りやっている人のいなかった TUNEL 法を用いて、Chrysotile がリンパ球に activation induced cell death を引き起こすことを確認し、川崎医学会誌および Int. J. Oncology に論文が掲載されました。TUNEL 法のキットを購入し、一緒に説明書をよみながら初めて試みた頃のことを覚えております。当時、血管内皮細胞の温度感受性株を用いて、松木先生は内皮細胞によるエンドセリンおよび IL-8 の産生を調べ、Oncology Reports に論文が掲載されました。これより先、絹川先生が本教室に所属していた折に、樹立が困難とされて来た seminoma の細胞株樹立に世界で初めて成功していました。この細胞を用いて、松木先生は、制癌剤の作用による seminoma 細胞のアポトーシスについて実験を行い、その結果を川崎医学会誌に発表しました。松木先生の学位審査は無事に終わり、大学院卒業を目前にしています。愛甲先生は念願だったというドイツ留学を実現し、デユッセルドルフ大学で免疫の研究をしています。

 平成9年8月から平成10年6月まで、北京首都医学院の講師である 馬 先生が、川崎学園の招待留学で来日され、本教室に加わりました。大槻先生が直接の相談役にあたり chrysotile によるリンパ球のアポトーシスを調べました。馬先生も大変に熱心な方で、一度帰国されて後、静岡県立大学の修士過程に進学して勉強されて居ます。

 現在、珪肺症患者の試料を用いた測定の一つとして、各種自己抗体の出現と個人の素因との関連を HLA class II の解析により検討しております。これには、PCR-RFLP 法を用い、磯崎さんが担当してきれいなデータを出して下さり、一部は既に論文として投稿中です。個人の遺伝的素因(様々な因子があるでしょうが)が、疾病の発病に関わる比重はかなり高く、これからは益々この方面の研究が進むのではないかと、色々計画しております。

 長々と漫談めいた思い出を書きましたが、今振り返ってみると、沢山の素晴らしい仲間達が織りなした、素晴らしい織物を眺める心地が致します。これから50年、更には100年先の川崎医大が、叉、衛生学教室がどうなっているだろうかと遠い未来に思いを馳せる者ですが、世の中の余りに早い変化のうねりの中で、なかなか先のことを想像することが出来ません。きっと更に、美しい絵巻が織られてゆくことと思い楽しみです。